東京にある国立スポーツトレーニングセンターの屋内テニスコートで、ダニエル太郎はボトルの水を一気に飲み干した。梅雨入りしたばかりの6月、湿度の高いある日の夕方、日本のテニススターは1日のトレーニングを終えたばかりだった。
「今、いろんな場所に住んでいるし、気分転換したかったんです。東京を満喫しています。」とダニエル太郎は言う。「ここにはたくさんの友達がいます。彼らはテニス関係者ではないから、少し普通の生活をすることができるんです。」
日本での束の間の休息は、太郎にとってATPツアーのプレッシャーを忘れて、様々なことがあったこの1年を少し振り返ることのできる、貴重な時間となった。
昨年10月、2年間の闘病の末、日本人の母である泰江さんが亡くなった。
「意外にも、最初の数か月はそれほど大きな悲しみを感じませんでした。誰かが病気で苦しんでいるのを目の当たりにしていると、それが終わった時には安堵感もあるからです。」と太郎は話す。
太郎は、1月の全豪オープンで復帰するまでの残りのシーズンを休養に充てた。今年30歳を迎える彼は、13年間のプロキャリアの中で、最高のテニスを見せた。アカプルコでは、世界4位の選手を破り準々決勝に進出し、インディアンウェルズとマイアミで開催されたマスターズ1000では、3回戦へと進み2人のグランドスラムのファイナリストを退けた。
瞑想の力
イスタンブールで彼の唯一となるATPツアータイトルを獲得し、シングルランキングでキャリアハイの64位となった2018年、ノバク・ジョコビッチを打ち負かしたことは多くのファンの記憶に残っているが、彼自身は、今の方がよりバランスが取れていると感じている。
「ジョコビッチのようなトップ選手を打ち負かしたり、今年の全仏オープンでカルロス・アルカラスからセットを奪ったりしたことを振り返ると、レベル面では彼らと同格であったし、いくつかの部分では彼らより優れていると実感することができました。勝つために意識的に前に出たり、様々なことに挑戦しました。」と話す。
変化をもたらしてくれたのは、イギリス人コーチであるジャッキー・リアドンであると太郎は感謝している。元選手であり、マインドセット:スポーツのためのメンタルガイドの著者でもある彼女は、2020年末から2年間にわたって、太郎のコーチを務めた。リアドンの指導を通して、瞑想の力を感じるようになり、また同時に、「自分自身に厳しくしすぎない」方法を学んだと言う。
その結果、よりリラックスし、自信に溢れているように見えるようになった。「この2年間で、人生についてだけでなく「対戦相手を打ち負かす」方法について考えることなど、本当に多くのことを学びました。自分がエースを取ったり、常にネット際で構えたり、クリーンなリターンを打ったりする選手になれるとは考えていませんでした。これらを実践できているからこそ、ツアーに出場し続けられるのだと確信しています。」と彼は話す。
長い付き合いとなったPURE DRIVE
ニューヨークで生まれたダニエル太郎は、幼少期を過ごした日本で、7歳の時初めてラケットを握った。スポーツに真剣に取り組み始めた頃、アメリカ人でテニスコーチであった父親からバボラのPURE DRIVEを勧められた。
「テニスを始めた頃からPURE DRIVEを使用しています」と笑顔で答える。「もう20年以上も前のことなんて驚きです。家族の次に長い付き合いをしています!」
一家がスペインに拠点を移したのは太郎が10代前半の頃で、この時期に選手としての太郎が形成された。英語、日本語に次いで、彼が第3の言語を習得した国でもある。その言語スキルと世界を飛び回るライフスタイルがあっても、日本で育った影響は今も強く残っているという。
「みんなは私のことを非常に国際的でおおらかな人間だと思っているようです。それはある意味あたっています。」と彼は話す。「けれど、テニスや人生におけるその他の物事への取り組み方において、私は他の日本人選手よりももっと日本人的だと思っています。でも、これは多くのエネルギーを奪われることなので、いつも自分自身に厳しくしすぎないようにする戦いなのです。」
ゲームに対して新しい見方を取り入れた太郎は、少なくともあと5、6年、できれば40歳までプロとしてプレーを続けたいと語る。
「この1年半は、初めて自分自身の気持ちに素直に決断できたと感じています。難しいこともありましたが、ツアーを楽しみ、たくさんの選手と良い関係を築けています。これが、練習に行くことを楽しめている大きな理由の1つです。」
※バボラ契約選手はカスタマイズされたラケットや写真とは異なるモデルを使用している場合があります。